翰文名人 专家一览 点评达人 翰文之星 原文库 译文库 全部项目 翰文网事 年度奖励计划
"输出型"翻译学习的倡导者 每个人都可以成为翻译家!

原文

  • 枫凌 推荐于 2016-05-08 21:00
  • 原文语言:日文
  • 所属分类:生活
此原文由 旅游 推荐

戦乱の歴史の生き証人である古橋と
若者たちが力漕するボートとの
対比が鮮やかに

日本最大の湖である琵琶湖には119本もの河川が注ぎ込んでいるが、琵琶湖から流れ出ている河川は、瀬田川だけである。その瀬田川には古来より一本の橋が架かっており、「瀬田橋」「大橋」「長橋」などと称されていた。

京都と東域を陸路で結ぶ交通の要衝だったこの橋は、672(天武元)年の「壬申(じんしん)の乱」以降、何度も歴史的な合戦の舞台となり、「瀬田橋を制する者は天下を制する」とまで言われた。まさに京都防衛上の、最重要地だったのだ。

その瀬田橋が「唐橋(からはし)」の名で親しまれるようになったのは、鎌倉時代のこと。瀬田橋が新たに唐様(中国風)の橋に架け変えられたことから、いつしかそう呼ばれるようになった。

以後も、「承久(じょうきゅう)の乱」や「建武(けんむ)の戦い」など、数々の戦火にみまわれ続けた唐橋は、織田信長の命を受けた山岡景隆(かげたか)(瀬田城主)によって、1575(天正3)年に現在地に移された。それ以前は現在地よりも少し上流に架かっていたことが、調査で確認されている。

だがその7年後に、明智光秀による「本能寺の変」が発生。光秀の安土攻めを阻止しようとした山岡景隆は、ただちに唐橋と瀬田城を焼き払ったものの、光秀軍はすぐにそれを修復して、信長の居城であった安土城へと侵攻。しかし「山崎の合戦」で秀吉軍に完敗した光秀は、「三日天下」で生涯を閉じた。

こうした長く凄まじい戦乱の歴史を経て、唐橋にようやく平和が訪れたのは、江戸時代になってからのこと。かつては生々しい戦場であり戦跡であった「瀬田の唐橋」は、やがて風光明媚(めいび)な景勝地として人気を博するようになり、近江(おうみ)国(現在の滋賀県)の優れた景観を選定した「近江八景」でも、「瀬田の夕照(せきしょう)」として讃(たた)えられるようになる。

さらに、歌川広重が描いた浮世絵や、「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」「橋桁の忍は月の名残り哉(かな)」といった松尾芭蕉の句などにより、唐橋の名は広く全国に知れ渡った。

ちなみに、「瀬田」という地名は古来より、「勢多」「勢田」「世多」等々、様々な表記が用いられてきた。それを行政が「瀬田」に統一したのは、1889(明治22)年のことである。

実は私は20年ほど前に、「琵琶湖」はどこから「瀬田川」になるのかを、現地を歩いて調べたことがある。その結果、琵琶湖と瀬田川の境界は、滋賀県立琵琶湖漕艇場(そうていじょう)のすぐ下流(大津市玉野浦字高砂2179番地2地先)であることがわかった。そこには、河川管理境界を示す、大きな標識が建てられている。

その琵琶湖漕艇場では毎年、日本で最も参加クルー数の多い朝日レガッタや様々な競技大会が開催され、関西ボート界の一大拠点となっている。 周囲の河畔には多くの大学や企業の艇庫が並んでおり、ボート部員たちは琵琶湖漕艇場から瀬田川洗堰(あらいぜき)間を主な練習区域として、日々の鍛錬に余念がない。

私はその練習風景をぼんやりと眺めているのが、大好きだ。日本有数の古橋として、戦乱のたびに若者たちの血で塗られたであろう瀬田の唐橋を、現代の若者たちが力漕するボートがくぐり抜けてゆく様は、ただそれだけで、時代の平和を想わせてくれる。

本文已经有人在翻译

翻译版本

渡过京阪沿线的桥:濑田唐桥 翻译时间:2016-05-27 17:21
译者:枫凌 | 译文语言:中文  | 所属分类:自然  | 审核状态:已审核 
 

关于我们|本站声明|隐私权保护规则|帮助中心

Copyright@ 2013 www.cnposts.com 京ICP备16040216号-2 京公网安备110107000042

本站保留所有权利未经许可不得转载 本站刊载的所有文章仅代表作者(译者)本人观点 不代表本站立场

"输出型"翻译学习的倡导者---每个人都可以成为翻译家

我要啦免费统计