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原文

  • 枫凌 推荐于 2015-07-19 11:49
  • 原文语言:日文
  • 所属分类:生活
此原文由 旅游 推荐

 「これが、僕が子どものころによく登って遊んでいた狛犬(こまいぬ)です。なぜだか、阿吽(あうん)の『吽』(向かって右側)のほうにいつも登っていましたね。小学校に入る前のことだと思います。家のすぐ隣の真福寺が主な遊び場で、そこでかくれんぼや缶蹴りなどをしたりしていましたが、愛宕山(あたごやま)も家のすぐ裏手なので、崖に分け入ってタマムシやカミキリムシを捕っていました。

 戦後間もないころは、愛宕山の上に占領軍の施設があり、そこに車で行けるよう緩い勾配の道路が付けられていました。冬、雪が降ると、そこを父の手製の(そり)に乗って滑り降りたものです。父は石工でしたので、そういったものを作るのはお手のものだったです」

 評論家で作家の松山巖と愛宕神社の大鳥居前で待ち合わせた。その日はあいにくの梅雨空で、約束の時間の10分前に大鳥居前に着くと、すでに松山が傘を差して待っていた。初対面のあいさつもそこそこに、さっそく松山は愛宕男坂の思い出話を始めた。

 大鳥居の先、社殿に向かう階段が愛宕男坂だ。上り口の両脇を狛犬が固める。松山は()れた石段を気に懸けることなく、とんとんと上り始める。

 「ほら、ここが私の父が修繕したと言われるところです。石段の表面の柄が違っているでしょ」

 松山は、上り始めて7、8段目あたりの石段を指差しこう説明しながら、さらに上っていく。

 かなりの急勾配だ。坂というより、壁に近い。濡れた石段も気になるが、もう松山についていくしかない。

 意を決して、実際に愛宕男坂を上ってみた。

 後ろを振り返ると足がすくむので、なるべく見ないようにする。とにかく足元に集中し、わき見をしない。上りながら、松山の話に耳を傾けると、地元の神輿(みこし)が戦災で焼けたなか、戦後まっさきに子ども神輿が復活し、小学5年の松山少年は他の子どもと一緒に神輿を担いでこの坂を上り下りしたそうだ。にわかには信じがたい話だ。しかし、現在も2年に一度の石段祭りの際には、氏子が神輿を担いで石段を上るという。

 松山に「下りとか、怖くないですか?」と聞くと、「慣れるとそうではありません」との答えが返ってきた。

 坂上まで、86段。上りきって振り返ると、視界の下のほうに新橋のビル群が目に入った。足元は、まさに奈落の底だ。慣れることなんてできそうにないと思った。

 「70年近くも()つと随分景色も変わりますね。昔はこんなに木が鬱蒼(うっそう)としていませんでしたし、周りに高いビルはなかった。もっと見晴らしがよかったですから」

 坂の上から下界を見下ろし、松山はこう感慨を漏らした。

とくに思い入れもない東京タワー

  • 松山が住んでいた路地から見える虎ノ門ヒルズ
    松山が住んでいた路地から見える虎ノ門ヒルズ

 昭和20年(1945年)7月生まれの松山は、昨年2月、地区の再開発のため、長年住み慣れた愛宕山下から近くの六本木に引っ越した。結婚した兄が実家を継いだあと、10年ほどの間、実家を離れたことはあったが、再び実家の隣の家に移り住み、戦後ほとんどの時期を郷里の愛宕山下で過ごしたことになる。

 昨年まで住んでいた家の場所にも案内してもらったが、兄も松山と同じ時期に虎ノ門に引っ越しており、兄弟が住んだ家はすでに取り壊され更地になっていた。ただ、路地をはさんだ向かいの民家はそのまま残っている。表通りは、かつてマッカーサー道路の名で計画され、ようやく昨年3月に開通した環状2号線、いわゆる新虎通りである。目の前に虎ノ門ヒルズがそびえ立つ。都心のど真ん中に、つい最近までこのような昭和の(たたず)まいが残っていたとは、これもまたにわかには信じがたかった。

 「うちも石工でしたが、このあたりは職人さんや商売をやっている家が多かったですね。みんなませていて、なんとなくおもしろい子どもが多かった。お客さん相手の家に育っているから、とにかく受け答えがうまいのです。小学校は1学年1クラスで、僕らの年は1クラス30人を超えるくらいでしたが、クラスの話し合いでものごとが決まると、『しゃんしゃんしゃん、しゃんしゃんしゃん』と三三七拍子で締めていましたからね」

 物心ついた最初の記憶は、一面の焼け野原だった。現在の官公庁街、霞が関あたりも、残っていたのはいまの文部科学省の建物くらいで、焼け跡に雑草が背の高さまで生えていたという。遊びの範囲は広かった。東だと隅田川まで勝鬨(かちどき)橋の開閉するところを見に行ったり、西だと神宮外苑の絵画館あたりまで歩いて行っていたという。

 戦後の復興のシンボル、東京タワーの建設が始まったのが、昭和32年9月で、翌33年12月に完成する。わずか1年3か月の工期で完成させたことになる。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(平成17年公開、東宝)は、東京タワーが空に伸張していく過程をストーリーとシンクロさせ、戦後の経済成長を強く印象づけた。舞台も、当時の愛宕町近辺だと言われている。

 ただ、「三丁目の夕日」の登場人物たちと同じ光景を見ていただろう松山には、東京タワーに対する特別な思い入れはないという。東京タワーが完成したとき、松山は中学1年だった。

 「第一、僕たちはここが都心だという意識はまったくないわけですよ。ここの『路地』で生まれ育ったという感覚しかない。出来上がっていく過程はずっと見ていましたが、とくに上ってみたいとは思いませんでしたね。初めて上ったのは、大学生のときでした。

 東京タワーの思い出といえば、僕は東京タワーのすぐ隣の芝中学に通っていて、雷がそこに落ちるのをながめて『おもしろいな』と思っていました。周りに高い建物がないので、東京タワーによく落ちるのです。夏場、夕方黒い雲がぱっと広がって薄暗くなったかと思うと、ばかんと稲妻とともに雷が落ちるのです。あれはなかなかの見ものでした」

墓標に見えた記念の柱

  • いまも愛宕男坂の上り口にある「町名存続達成記念」の柱
    いまも愛宕男坂の上り口にある「町名存続達成記念」の柱

 東京藝術大学で建築を学び、1級建築士の資格を持つ松山は、昭和59年、39歳のときに、江戸川乱歩の小説を手がかりに東京の都市が変貌する過程を分析した『乱歩と東京―1920都市の(かお)』を著し、評論家として認められる。平成8年、「路地」での生活を描いた小説『闇のなかの石』では、伊藤整文学賞を受賞した。

 『乱歩と東京』と同様に、明治維新以降の都市の変貌の実態を当時の建築物と都市計画から読み解いた『百年の棲家(すみか)』の最終章で、松山は路地を出ていく小学校の同級生Kのことを書き残している。大学生の松山は、学校帰りのたまにK宅に寄るのだが、その当時で路地に残っていた同級生は、5、6人しかいないとされている。理由あってKは路地を出ていく。空き家になったK宅を見るたびに、松山は苛立(いらだ)ちを覚える。

 同じ最終章では、かつて手製の橇を作ってくれた父との葛藤も描かれている。昭和37年に「住居表示に関する法律(住居表示法)」が施行され、古くからの町名が相次いで変更されていくなか、愛宕町では町名変更の反対運動が沸き起こる。父に「反対署名をしろ」と言われた松山は、「なにを寝ぼけたことをいまさら」と断る。

 「そのころ父はすでに体を壊し、仕事もなくて家で寝転がっている毎日でした。父の覇気のなさに苛立っていたのだと思います。それに町名を残すといっても、小学校の友だちはほとんど残っていないじゃないですか。名前だけ残してもしょうがない。ですから、昨年引っ越すときでも、この土地に対するこだわりとか未練はありませんでした。顔なじみの人は、もうほとんどいませんから」

 愛宕男坂の上り口の左側には、いまも「愛宕の町名存続達成記念」と書かれたステンレス製の柱が掲げられている。松山は『百年の棲家』の最後の一文で、この柱のことを「墓標に見えた」と記している。

 (続く、文中敬称略)(メディア局編集部 二居隆司)

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